1991年に学校を卒業して、僕は会社員になりました。そこでの仕事は、注文住宅の営業なので、休日は火曜日と水曜日、そう、月曜日が週末の始まり、TGIFならぬ、TGIMです(笑)
大学時代から付き合っていた彼女と26歳で結婚して、ままごとのような生活をしていましたが、その彼女が好きだったものの一つが、当時、香港のスターで、四大天王と呼ばれたうちの一人、レオン・ライさんでした。シュッとしたイケメンで、まあ追っかけという訳です。
その彼レオン・ライと、マギー・チャンが主演した映画がありまして「ラブソング」といいます。題名だけだと、同名の映画もいっぱいありますし、今もTVドラマでやっていますよね!この映画は、とても長く3時間を超える長編です。ご存知の方もいらっしゃるかと。
映画「ラブソング」は、僕のとってのNO.1フェイバリットです。
「ラブストーリーの不朽の名作」とも言われますが、「すれ違い、腐れ縁映画」だとも言われます(笑)
あらすじを簡単に言うと、80年代の改革解放路線で、大陸からチャンスを求めて香港に出てきた男女のすれ違いを10年にわたって描いた作品です。
香港の文化と大陸の文化の違い、香港返還前の混乱と困惑、そして都会に染まっていきながら、すれ違いをしながらも、人としての愛情や思いやりを育んでいく、そんな物語です。
そして、映画全体の音楽は、台湾出身で日本でも人気のあった歌姫、そう、テレサ・テンさんの歌です。この中国本土、香港、台湾という分断された関係を、そこに生きる人たちの群像劇でもあります。枠役の方々も、一癖も二癖もあって、素晴らしい作品です。
結婚する前、彼女とは休みは一緒だったので、デートを兼ねて月曜日の夜に、羽田発の最終便で香港に行く訳です。その頃、仕事は忙しかったのですが、若さってのは凄いもので、いろんな都合をつけて行ってました。もう、会社には直帰するとか、嘘ついて(笑)でしたけど。
80年代のバブル景気を、大学時代に経験していましたから、90年代になっても、僕らはその癖が抜けきれず、働いては使う、という生活をしていました。
まあ、僕自身は愚かな部分が多々ありますが「お金は流れ」ということを理解できるようになったのも、その彼女のおかげです。ある時代を一緒に過ごせたことを、本当に、いろんな事を教えてくれたことも、一緒に経験をできたことも、今でも感謝しています。
彼女は、東京の広尾育ちで16歳ぐらいでBARデビュー(笑)いろんなことを知っていました。まあ、若い世代で同年代の男女なんて言ったら、男性はガキですからね(泣)
例えば、今でこそ、航空券などはe-checkで簡単ですが、当時の航空券を、どこでどう買うのかとか、マイルの使い方とか、ホテルの予約とか、まあ、いろいろ教えてもらいました。今の僕が、いろいろ若い子に教えているもの、こうやって周り回ってるんだな〜、と考えると、感慨もひとしおです、それは違うかもしれんけど(笑)
そして、近くとはいえ、海外と日本の違いを体感するわけです。文化だけじゃなく、通貨もね。
当時の香港ドル(米ドルにペッグされています)と日本円の交換レートは、ものすごいスプレッドがありました。まあドル円を考える分かりますよね。
ドル円といえば、1990年には140円だったのに、その後は円高傾向となり、1994年には100円を割り込み、1995年には、80円を一瞬割り込む、79円75銭という史上最高の円高になった、これは、あの頃の話なんです。
当時の日本円は強く、通貨が安い国に行けば、このメリットを享受できる訳です。そう、国内旅行に行くよりも、通貨の差が大きい海外という選択肢と、平日という選択肢を行使すると、もの凄いことが起きました!
航空券を往復、エコノミーでも正規料金で買えば、ぶっちゃけ月曜の最終便、空いていればビジネスクラスにアップグレード!しかも、マイルも優遇されますよね。それに、泊まる香港のホテルも、日本の高級ホテルグレードが、渋谷のラブホなみの値段です(笑)
日本のスターを追っかけるより、香港のスターを追っかけたり、コンサートを見に行ったり、食べたり、飲んだり、ウェーイって、いうことが、驚くような金額で体験することができました。僕が「為替」という視点を持ったきっかけかもしれません。
そして、その当時のナイトフライトの向かう先は、1998年に閉鎖されるカイタック(啓徳)空港に到着するんです。そう、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、香港の100万ドルの夜景の中、香港アプローチと呼ばれるカーブを切りながら、ビルの谷間を降下して、タッチダウンに向かう、あの伝説の着陸です。
超、かっちょよかったなぁ〜
当時の香港は、まだまだ発展途中でしたが、文化大革命後の改革解放路線に乗って、イギリス領である香港に、大陸から来られた方がいっぱい出稼ぎに、あるいはチャンスを求めて移住されて来られていました。
最初はよくわからなかったんですが、明らかに洋服が違うんですよ、大陸の方と、香港生まれの方とはね。そして、言葉が違います。香港は広東語、大陸の方は大部分が北京語です。
日本という島国だけにいたら、そこから自分の力で外の世界を見なかったら、週末だけでも、何度も行きましたから、仕事には全然関係ない、ドメスティックな仕事をしていても、感じることが少しはできるようになった、いい時間でした。
体験しないと、世界の広さはわからない、ということです。
このblog、どうして書こうと思ったかと言いますとね、昨日、NHKのBSプレミアムでテレサ・テンさんの特集をしていたんですね、もう、有名すぎて僕が何を書く必要もないんですが、誰もが彼女の曲を聴くと、口ずさむことができますよね。
比較する必要もないんだけど、本当にいい歌、というのは記憶に残ります。そして、音楽は、その時の体験した記憶や、観たものをおのおのが持っている記憶の金庫から引っ張り出してきてくれます。
「Goodbye My Love」という楽曲があります。アン・ルイスさんの歌でご存知ありませんか?他にも色んな方がカバーしています。
この映画「ラブソング」には、テレサ・テンさんの歌が、数多く挿入され、物語を盛り上げます。というか、テレサ・テンさんの歌があってのこの作品なんですよね。
映画の中では、この歌がとっても効果的に使われていて、僕の記憶の中からこの歌だけで、当時の記憶、体験、思い、雰囲気、などなど、いっぱい引っ張り出してくれました。凄いですよね、楽曲の力って。
では、どうぞ、テレサ・テンさんが歌う、Goodbye My Loveの北京語バージョンです。
さて、いかがでしょう?アン・ルイスさんの歌とも違う印象、ございませんか?実は、北京語で歌っている、ということろが、僕はポイントだと思っています。
この映画で、なぜ、テレサ・テンさんの音楽が使われているのか、その背景を僕なりに書かせて頂ければと思います。
第二次世界大戦の戦場となった中国では、それ以前からのイギリス領香港と、ポルトガル領マカオ、中華民国の政権であった国民党の台湾、そして中国本土の政権を取った中国共産党による中華人民共和国に分かれます。つまり民族としては分断された訳ですね。
その中華人民共和国では、西側諸国との対立があり、秘密のベール包まれた中での大躍進政策がありましたが、失敗に終わり、その後、文化大革命という悲劇に見舞われます。
この時に、中国本土では、恋愛を扱った歌が禁止されます。まあ、文化という多様性や、人本来の感情を抑える政策をとる政権などというのに、真っ当なものはないことは、歴史が証明してますけどね。
そんな時代に、テレサ・テンさんは台湾で、国民党軍の軍人の子として生まれ、早くからその才能を開花し、歌手となります。
その時に、北京語(台湾に従来からいた人たちは台湾語、外省人と呼ばれることになる国民党の人たちは北京語です、ここにも分断があるのです)ですが、チャイニーズメロディーの名曲、何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)を歌います。
この何日君再来は、テレサ・テンのオリジナルなどではなく、1930年代につくられた映画の主題歌で、当時、空前のヒットとなり、李香蘭で知られる山口淑子さんもカバーされているし、数多くの方がカバーされているチャイニーズメロディーの名曲です。
ただ、時代に翻弄されたというか、政権によっては、当時、戦争をしていた日本に対する反戦歌でもありましたし、先程書いたように、禁止になったこともあるぐらい、中国の人の心に刻まれている歌なんですね。
この歌が、文化大革命で抑圧を受けていた中国本土の人たちに、北京語で歌う、台湾出身のテレサ・テンの評判が、SNSもない時代に口コミで広がり、カセットテープを介して拡散し、数年後に、中国本土でヒットすることになります。
時代は、毛沢東が亡くなり、次のリーダーである鄧小平の改革開放政策のもと、ようやく市場経済の導入と、国外への移動の開放が始まる時を一緒にします。
映画の中はで、マギー・チャンが演じる、大陸から改革開放路線に沿って稼ぐために香港にきたレイキウが「大陸の人たちは、テレサテンの歌が好き、だから、カセットテープに違法に録音して売ろう」とする場面が出てきます。
でもね、これ、売れないんです。全然、売れないんです、、、
なぜなら、そんなカセットテープを買うと、大陸出身者ということが、バレちゃうから、敬遠されるんです、、、わかる、その気持ち。僕も名古屋から18歳で東京に出てきたから、何となくわかります。まあ、そうゆうところあるよね〜
でも、テレサ・テンさんの歌は、ずっと分裂した中国の人たちの琴線に触れ、ずっと大事にされてきたのです。僕らが思いもよらないぐらいね。だって、中国の方と話すと、やっぱテレサ・テンさんの話題は共通性が高いから。民主化運動の話じゃなくて、歌の話限定ですけどね!
まあ、晩年のテレサ・テンさんは、その影響力とともに、中国本土の民主化運動に肩入れしますが、その事が、逆に中国での芸能活動に影響を及ぼします。晩年はパリを中心に活動され、持病の喘息を悪化され、亡くなります。本当に、悲しかったなぁ。
さて、テレサ・テンさんは、どこの国の、何人、と呼んでいいのでしょうか。
彼女自身は「自分はチャイニーズ」だと端的にインタビューに答えています。そう、解釈のすると、この単語自体、立場によって解釈が分かれてしまう、それぐらいしか、表現する言葉がなかったんですよね。
でも、歌は、心に直接響きますから、たとえいかなる背景があっても、歌詞の意味がわからなくても、なぜか、伝わるんですよね。
僕の母は、今年82歳になりますが、幼少期を満州で暮らし、戦後の混乱の中、引き上げてきたという経験があります。
一歩違えば、中国残留孤児となった身だったと教えてくれました。だから、一時期、中国残留孤児の方々の写真や、探している人たちに対して、思いがあったのでしょう、いろんな手伝いをしていましたね。
そして、TVで中国残留孤児の話題が出るたびに、よく言っていた言葉があります。
中国の人たちは、子供を連れて逃げれなかった日本人の親から子供を託された時、その子たちを自らの子として育てたんだと。だから、戦後、国交が断絶しても、自分たちの子だから、今、中国で暮らしていることができるんだと。
それは、国とか、思想とか、そんなものじゃなくて、生活すること自体が大変な大陸では、人の生き死には簡単に起こる、だから、日本人の敵国の子だという意識があったら、育てることなんかしない!って。
過酷な戦争体験と、引き揚げ時の体験がある母の言葉には、僕は何の反論もありませんし、できません。理解できるのは、人というのは根底では一緒だし、変わらないということ。
時代や、地域、言葉や、思想を超えて受け継がれる歌は、確かにあります。これこそが、人がつながる本当のツールなのかもしれませんね。
今日は、母の日、一つの歌が、いろんな思いを運んできてくれました。では、最後に、テレサ・テンが歌う、何日君再来です。日本語訳詞も歌ってますので、どうぞ、聴いてみてくださいね♪
木﨑 利長
化学メーカーの住宅部門に約9年。1999年2月生命保険会社に、ライフプランナーとして参画。
具体的には、上場企業を含む約80社の親密取引先のご縁を中心に、生命保険契約をお預かりしており、財務や資金繰りといった経営課題ついての改善や、売上を伸ばすための営業研修など、お客様の事業価値を向上させるための具体的なソリューションを提供し、経営者の弱音をも受け止められる担当者を目指し日々精進中です。
(※このブログでの意見は全て個人の意見であり所属する団体の意見を代表するものではありません。)
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